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rexus別館

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apotosis vol.7

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Kai DAY9

 混沌とした闇に覆われたアドビスは妖艶な女を思い浮かばせる。どこか危険な香りを漂わせつつ、それでも男の心をを魅了してやまない魔力のようなものを内に秘めて。もしかしたら俺達もその魔性に魅入られてここまでやって来たのかもしれない。
 時は既に深夜と呼んで差し支えないであろう頃。未だ生々しい傷跡を残した中庭へと俺達はやって来た。
「昼間は世話になったな」
 低く野太い声が鼓膜を震わせた。それは一瞬の猶予さえ許さずに宵闇の中へと溶け込んでいって、その残像を求めるように俺はゆっくりと顔をあげる。視界の内に現れたのは一人の男。吹き抜けになった天井から差し込んできた月光は聖騎士団の鎧を艶めかしく照らし出している。少し視線を上げると短く切りそろえられた髪に逞しい髭を蓄えたその男の顔を見る事が出来た。瞳に映し出された蒼白い月の明かりは精悍な顔立ちにある種冷たい彩りを添えている。
「俺は何もやってないさ」
 そう答えて肩をすくめてみせた。しかし彼の表情が緩む事はない。俺の瞳をじっと見つめながら、その様子は何か別の答えを欲しているように思えた。つまり、今夜俺を呼んだ理由はそのような賛辞を浴びせる為ではないという事。互いに命を預けあった仲だ。目を見ればおおよその事は解る。
「なあ、付き合えよ」
 有無を言わせぬ口調でそう言いながら剣を投げつけてくる。ずっしりと重い模擬剣だ。剣は言葉以上に雄弁に語るというなら、この習慣ほど厄介なものはないと心から思う。そう思いながらも断れないのも悪習に他ならないが。
 無言のまま剣を抜いて彼と対峙する。仄暗い闇の中で妖しく光る瞳をしかと見つめ、右足を一歩だけ前に出した。これから先後退する事は許されない。それが俺達のルールであり、同時に唯一共有し得る言葉でもあった。
 生温い風が頬を撫でたのを合図に足を踏み出す。風の抵抗を減らすよう身体を前倒しにして切っ先も後ろに向ける。彼の姿がどんどん間近に迫ってきて、そしてその剣がギリギリ俺を捉えられる距離にまで接近してきた所で素早く剣を振り上げた。しかし彼は依然として俺を見つめたまま微動だにしない。
「どりゃぁぁぁぁ!!!!!」
 ギンッと鈍い音をたてながら、それまで沈黙を守ってきた彼の刃が俺のそれへと食らいついてきた。上半身だけでは抑えきれない程の重い衝撃だ。このまま無理に持ちこたえようとすればバランスを崩してしまいかねない。即座に刃を傾けると勢いづいた彼の剣を空に流した。そのまま後ろ足に力を入れて踏ん張りながら、返す刀で失速した刃を無理矢理振り下ろす。それは防御態勢に入った彼の刃と思い切りぶつかり、反動でブワッと宙に浮かびあがった。
 終わりのない剣と剣のぶつかり合いの中で、彼は一度として仕掛けては来なかった。俺の太刀筋は完璧なまでに読まれていたのだ。俺が消耗していくのをよそに彼の剣はいつまでも鋭さを失いはしなかった。
 焦らずにはいられなかった。俺が消耗すればするほど勝機は失われていく。しかしこのまま攻めていって勝てるとは思えない。そのような思いが頭の中をぐるぐると巡っていって、ついには一つの結論が頭にこびりついたまま離れなくなっていた。
 それを拭い取る事が出来ないまま渾身の力をこめて彼の剣を弾き飛ばす。彼に一瞬の隙が出来るが、俺が剣を振り上げるまでに十分持ち直す事が出来る程度のものだ。そう見越した俺は地面と水平になるよう剣を持ちかえた。そのまま槍を突くように前へと重心をかけていく。しかし次に彼のとった行動は全く予想外のものだった。
 弾き飛ばされた剣を空中で逆手に持ち替えた彼は、それを勢いよく俺の剣へとぶつけてきた。横から思わぬ衝撃を受けた俺の剣はいとも容易く進路を変えてしまう。そして俺自身が間抜けな格好で彼の横を通り過ぎていったすぐ後、首筋に冷たいものがスッとあてられた。
「お前の負けだ」
 感情のこもっていない冷たい声が投げつけられる。すぐさま彼は剣をしまって、俺は恐る恐るといった風にぎこちなく顔をあげた。
「あ……はは……負けちまったな」
 意識して軽率な笑い声を漏らした。この気まずい空気の中でそうする他に何も思いつきはしなかったのだ。しかし彼はくすりとも笑わずに酷く低い声で先を続けた。そしてその言葉はこの上なく俺を動揺させた。
「いつからそんな投げやりな剣を振るうようになった」
「え……」
「例え相手を倒す事が出来たとしてもそれは『差し違えて』だ。かつては聖騎士団の長にまで上り詰めたお前にそれが解らぬはずがあるまい」
「その名前を出すんじゃない」
「何があった? 一体どういうつもりなんだ?」
「お前には関係ないだろ」
「関係ないわけがないだろうが! かつては命を共にした仲だ、お前の事を心配して何が悪い!!」
「それが余計なお節介だと言っているんだ。とにかく話す事はない。何も変わった事なんてないんだから当然だ。そうだろ?」
「あの女か」
「何……?」
「あのダークエルフのせいか」
「そんな風に呼ぶんじゃねぇ!!」
 腹の底からムラムラと沸き起こってくる理不尽な怒りに任せて彼の頬を殴っていた。顔を醜く歪めながら後ろずさった彼だったが、すぐに体勢を立て直して、今度は俺の頬をガンと殴ってきた。脳みそが揺さぶられるような感覚にぐらりとよろめいてしまう。何とか倒れずには済んだが、目の前の歯を剥き出しにした男の顔は二重にも三重にもダブって見えた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 この時の俺を支配していたのは激情に他ならなかった。ただ闘争の本能のみに身を任せた俺は獣以下に成り下がっていたのだ。
 彼の胸ぐらをめがけて、斜め倒しにした肩を思い切りぶつけてやる。ほんの一瞬ほど間をおいて骨が軋むような鈍い痛みが上半身を伝った。左腕に鎧の冷たい感触を感じたのもつかの間。フワッと宙を舞うような妙な感覚が体中を駆けめぐっていく。そして何が起こったか理解したのは彼の身体越しに地面に叩きつけられた瞬間だった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 もう一度咆吼をあげて腹の上に馬乗りになる。
 忌々しげな瞳で俺を睨み付けるかつての戦友。その顔に刻まれた僅かな表情すら見逃すまいと目を見開いたまま拳を振り上げる。それを振り下ろすのに些かの戸惑いすらなかった。
 ズンッと重い衝撃が拳に走る。しかし彼とて黙ってやられるつもりなどあろう筈がない。再度振り下ろした拳は大きく分厚い掌に阻まれていた。そこに好機を見いだした彼はもう片方の拳を容赦なく腹にぶち込んできた。反動で身体がフワッと浮かんで、気が付いたら為す術もなく地面に押さえつけられていた。
 相手に背と尻を向けた情けない姿で、俺はただ苦い敗北を噛みしめる事しかできなかった。

「ったく……本気で殴りやがって。明日隊長にどう言い訳すりゃいいんだよ? 女王様を護ってくれた英雄と殴り合いをしました、なんて言えないぜ? 今更乱闘騒ぎを起こすような年でもあるまいしな」
「……悪かった。本当にすまない」
「ふふっ、まあいいさ。思い返してみると本気で殴り合いなんてしたのは久しぶりだよ」
「俺もだ」
「実を言うとな」
「ああ」
「結構気持ちよかった。スカッとしたよ」
「そうだな……ああ、そうかもしれない」
「そいつは良かった。どうやら殴られ損にはならずに済んだようだな」
 再び静寂が訪れる。
 混沌とした闇に覆われたアドビスの夜。随分と年季の入った壁に背を付けて座る男が二人。相手は気心の知れたかつての戦友。何を隠す必要がある? 隠す事で何を守ろうとしている? もはや守るものなど、このなけなしのプライドの他に何一つありはしないというのに。あの二人に言う事は出来ない。でもこの男なら、俺の中でそういう想いが少しずつ大きくなっていく。
「好きな女がさらわれたんだ」
「ああ」
「俺には何も出来なかった」
「何もしなかったわけじゃないんだろ?」
「もちろん。もちろんそうだ。だけど助けられなかった」
「不可抗力というやつだな」
「あいつは俺を護る為に命をかけてくれたんだ。だから俺も命をかけてあいつを助け出してみせる」
「今のお前に何が出来る?」
「…………」
「さっきので解っただろう。少し頭を冷やせ。自棄になるな。何でも自分の中で片付けようとするんじゃない」
「だったらどうしろと言うんだ? 俺に解るわけ無いだろ? 頭の中がグチャグチャだ。何も考えられない。時間だってそんなに残されているわけじゃない。俺に出来るのはただ剣を振り回して先に進む事だけなんだ」
「解らないのか? それじゃあ俺が教えてやるよ。簡単な話だ。彼女を救い出してお前も生き残るか、敵と差し違える代わりに彼女を助けるか、それとも二人とも死ぬかだ。どんな複雑な事情があろうともこの三つ以外にはないんだ。そして俺にはお前が初めから死を選んでいるようにしか見えない」
「…………」
「その先を考えた事はあるか? 独りぼっちになった彼女がどうなるのか、お前になら解るだろう」
「ああ、痛いほど解るさ!! 今だって……今だって苦しくてたまらないんだ」
「今お前がしようとしているのは、それを彼女に押しつけるという事なんだぞ。彼女に同じ想いをさせるという事だ。カイ、お前はその苦しみから逃れたいと思っているんじゃないのか? 死ねば全ての苦しみから解き放たれると、そう考えているんじゃないか?」
「…………」
「お前が本当に彼女の事を愛しているなら生き延びろ。生き延びてその手で彼女を救ってやれ。それ以外の事なんて考えなくていい」
 俺は決してその言葉を忘れないだろう。自分への戒めとして、そして真に俺の事を思ってくれる友の言葉として。忘れた頃に痛み出した頬に手を当てながらそう誓った。


DAY9 Sion
 目の前には広大なアドビスの城下が広がっていた。時刻は深夜と呼んでさしつかえないであろう頃。場所は寝室の近くにあるバルコニー。もちろんここには俺以外の誰もいやしない。唯一時を共にするものがあるとすれば、それは闇に包まれた城下の中にちらほら見える灯りくらいだろう。
 太陽を飲み込んだ暗闇が支配するのは眠りについた人間達の世界。彼らの生み出した炎という光は如何ともしがたい支配に対するささやかな抵抗。それが如何に無力であるかは彼らのさらした無防備な姿が証明する所であろう。何の不安や心配をも抱くことはない。日常生活の雑踏の外に目を凝らす事もない。この国で何が起こっているのか、たった一つの事象が彼らの生活を変えていたかも知れない事など知る由もない。そんな無知が彼らを安らかな眠りへと誘っているのだとすれば、これほどまでに幸せな事もないだろう。既に虚像と化してしまったこの国でさえ、それを背後で支えるというのは並大抵の事ではないのだ。少なくともそれを語る資格など今の俺にはありよう筈がないのだが。
「お兄様」
 背中越しに聞こえてきたのは少し高めの透き通った声。耳障りのよいそれを慈しむようにゆっくりと目を閉じる。少しだけ間をおいて再び目を開けた時、自然と口元が緩んでいるのに気が付いた。
「こんな時間に出歩いたりして……何かあったらどうする」
 叱りつけるつもりなど無かった。意識した穏やかな口調はもしかしたら懇願するように聞こえていたかも知れない。隠し事をするのは上手くはないから、いつもどこかにボロを出してしまう。そうでない事を祈りつつ、心の準備を終えた俺はようやく彼女の方へと顔を向けた。
「護衛がついているから大丈夫です。それに、どこにいようとも危ない事には変わりないでしょう」
 僅かに歪んだ口元には自嘲的な笑みが浮かんでいた。それを吹き飛ばすように二度ほど声もなく笑って、それから口元をキュッと固く結んだ。
 俺はその様子をただじっと見つめていた。何か返さなければ、という思いは常に頭の中にあった。だが俺は純粋に圧倒されていたのだ。彼女の雰囲気に。彼女の見せる表情の一つ一つに。そんな俺にしびれを切らしたのだろうか。彼女はもう一度だけ微笑んでから目前に広がる城下に視線を移したようだった。
「そちらに行っても宜しいですか?」
 応えを待つことなく足音が近づいてくる。よく響き渡る小気味良い音だ。
「ああ」
 少し遅れてそう答えた。その間も互いの視線が交わる事はない。ただ、俺の瞳はずっと彼女の姿を捉えていた。そして彼女が柵に身体を預けた瞬間、俺は再び城下の方へと視線を移した。その行為を続ける事に些かの虚しさと恥ずかしさを感じずにはいられなかったのだ。
「……大丈夫か?」
 言葉を選んだのか選ばなかったのか、自分でもよく解らなかった。きっと返って来るであろう『ある答え』を期待していたのだろう。そのような言葉で安心しようなどとは我ながら随分浅はかだと思うけれど。
「ええ、まだ持ちこたえられる程度には。でも正直……今回は参りました」
「俺が言うような事じゃないけどな」
「構いません」
「法治国家においては『疑わしきは罰さず』が鉄則だ。だがアドビスは違う。そしてそれを裏付ける真理もある。この世の中には黒と白の二つしか存在しない。グレーゾーンなんて無いんだ。黒に限りなく近い白はいずれ黒になる」
「確かにそうかもしれませんね。いえ、その通りだと思います。しかしそのような事をして何になるというのですか? 僅かばかりの間この身を長らえさせる事にどんな意味が?ルーファスはきっかけでさえあれ、根本的な原因にはなり得ないのです。そこに彼である必然性はなく、あったのは彼であるかもしれないという蓋然性だけ」
 仄暗い闇の中で息の詰まるような沈黙が訪れた。互いにその先を語る事だけは避けたかったのだと思う。意識的であれ無意識的であれ。
 しばらくたって静寂を破ったのは俺だった。あの事を話さなければならない。このままミトと別れるわけにはいかない。そう思っていた。だがそうするには些かの時間が必要だったのだ。
「……あの時、嘘を吐いたんだ」
「何です?」
「俺がこの国を捨てたと、そう言った。だけど……あれは嘘なんだ」
「お兄様……」
「全てに耐えられなくなった俺はこの国から逃げ出した。尻尾を巻いてな。何もかもお前に押しつける事になると解っていたのに」
「あの状況では仕方なかった。そうでしょ?」
「そうかもしれないし違うかもしれない。だが俺が責任を放棄したのは事実だ」
「お兄様、これだけは信じて欲しいのです。私はそれでお兄様を恨んだ事など一度も、一度もありません。いえ、むしろ良かったとさえ思っているのです。もしもこうなっていなければ、私は未だ庇護の元で温々と暮らしていたでしょうから。ほんの僅かでもお兄様の苦しみの一部を引き受ける事が出来た、それが嬉しいのです。全てをお兄様に押しつけずに済んだ事が。一つだけ恨んだ事があったとすれば、それはお兄様がこの国に残って、そして異世界になど行かなかったら……私は大切な肉親を亡くさずに済んだという事」
「お前……」
「だからお兄様が生きてらっしゃると分かった時は本当に嬉しかったんです。この目で再びお姿を見る事が出来た時、私が何を考えていたか解りますか? 私はお兄様と一緒にこの国を変えたいと思った。誰もが幸せに暮らせる国を作りたかった。いいえ、本当はそれも耳障りの良い言い訳に過ぎない。もちろん国の元首として国民の幸せを考えるのは当然の事です。しかし一個人としての私が追い求めていたのはそのようなものではなかった。それは目的を達成したその先にあるものであり、それ自身が目的ではなかった。私は……お兄様がお兄様でいられる国を作りたかった。もう一度私の側に戻ってきて欲しかった。そして共にこの国をよりよくしていければと。でも……私じゃダメですね。結局は何も変えられなかった。崩れゆくアドビスを止める事が出来なかった」
「ミト、お前は本当によくやってるよ。本当だ。俺ならきっとここまでは持ちこたえられなかったと思う」
「でも結果として私には何も出来なかった。それが事実であり一番大切な事でしょう? 私の努力は結果が伴ってこそ評価されるべきもの。結局私を計る物差しはそれ以外に何もない」
「……なあ、昔お前にせがまれて一度だけ砂遊びにつきあったよな。覚えてるか?」
「ええ、もちろん。凄く楽しかったから。でもどうして?」
「一緒に砂の山を作ったよな。その後、お前はてっぺんに旗をたてたいと言い出した」
「私は小さな木の枝を拾ってきて、それをてっぺんに刺した。そうしたらあっという間に崩れてしまって」
「お前は何とかして崩れるのを止めようと必死になっていたよな。両手で砂を押さえつけたり、もう一度固めようと叩いてみたり。でも無理だった」
「フフッ、あの後はずっと泣きじゃくってお兄様を困らせてしまいましたね」
「あの時だってそうだ。結局は止める事なんて出来なかった。そうだろ? ぎゅうって押さえつけても、結局は歪な形のまま元に戻る事なんてないんだ。でも、一度真っさらにしてしまえばもう一度山を作り直す事だって出来る。城も、山も、作ろうと思えば何だって出来るんだ。一つの形にとらわれる必要なんてない」
「お兄様」
 妹の小さな身体がそっと寄りかかってくる。
 今だけはお前の背負った全てを受け止めてやるーーそう心に誓いながら、ずいぶんと逞しくなったその肩を優しく抱きしめてやった。

DAY10 Sion
 翌日、カイと合流した俺達は魔導研究所へと向かっていった。
 真っ青に腫れ上がった彼の顔には随分と驚かされたが、敢えてその理由を問いはしなかった。普段は冷静沈着なカイの事だ。そのような行為に至るまでにはそれなりの理由があったに違いない。つまり俺達には入り込めない領域があると、そういうわけだ。俺達の間に彼には入り込めない領域があるのと同じように。ただ一つだけ理解に苦しむ事があった。いくら施療院に行くよう進めても頑なにそれを拒んだという事だ。何て事はない。白魔術を使えば痣など跡形もなく消えてしまう。しかもものの数秒でだ。妙な話ではあるが、彼は痣が消えてしまう事を拒んでいるようにさえ思えたのだ。
 魔導研究所で俺達を迎えたのはヒルダという男だった。年の頃は30半ばくらいだろうか。背はすらりと高く、グレーの髪の毛は短く切りそろえられて、穏和な表情からはどことなく落ち着いた雰囲気が感じられる。しかし一方で色つきの眼鏡が表情を隠している感も否めない。
「ようこそ、お待ちしていましたよ」
 社交辞令的な笑みを浮かべながら近づいてくるヒルダ。どうやら肩を大げさに動かす癖があるらしい。彼の身体が斜めに傾く度に、薄暗い部屋の奥にある何かがちらちらと目に入った。そして彼自身俺がそれに興味を持った事に気付いたらしかった。
「ああ、あれですか。あなた方が昨日倒した魔物ですよ。うちに分析依頼がきましてね。生物学は専門ではないのですが、ご存じの通りその手の研究に関してアドビスは遅れているのです。所謂オーソリティと言われる存在はいないのですよ。それで仕方なくうちが引き受けたわけです」
「分析?」
「そうです。一時的にしろ魔物が人間の指揮命令下にあった、我々はその事実を重く見ている。それ故にその原因を探り出そうと、こういうわけです」
「魔法を使ったんじゃないのか?」
「あり得ない話ではないですね。その可能性は極めて低いでしょうけれど」
「どうしてだ?」
「もしもそうであるなら、人間と魔物のパワーバランスは今とは全く異なったものになっている筈です。ここまで発達してきた我々人間が何故未だに魔物の影に怯えねばならないのか。その答えは火を見るより明らかでしょう」
「それじゃあ他にどのような可能性が?」
「飽くまで仮説でしかありませんが、頭部に何らかの外科的な手技が施された可能性があります。見たところ幾つか切開した跡がありました」
「俺が使った魔法の跡じゃないのか?」
「いいえ。貴方の使った雷系の魔法の場合、裂けたような傷口になるのが通例です。確かにそれも多数見うけられましたが、頭部に集中して刃物で切ったと思われる滑らかな傷跡が散見されました」
「では脳に何らかの細工をしたと?」
「一つの可能性として。ただそれを裏付ける公的な資料も実験結果も存在はしません。先ほど申し上げた通りアドビスではその手の研究は遅れていますからね。もっとも、それを行う風土が存在しないというのが大きいとは思いますが。ただしそれには公的なレベルで、という但し書きがつきます。今件の場合は星室庁が関与していた公算が極めて大きい。その権力と財力を用いて秘密裏に研究が行われていたと考えるのが妥当でしょう。だとすれば我々にとっても愉快ならざる事態に発展しかねないと、こういうわけです」
「たかだか権力を手に入れる為に神の領域にまで足を踏み入れるとは……人間というのはつくづく恐ろしい生き物だな」
「全くです。ああ、話が逸れてしまいましたね。失礼しました。それではそろそろ本題にはいるとしましょうか」
「ああ、頼むよ」
「お訊きになりたいのは魔術師失踪事件と魔物の活性化についてでしたね。まずは失踪事件についてですが、これに関しては改めて申し上げる事はありません。我々の持っている情報はあまりに少なすぎます。それをもって何らかの判断を下すというのは時期尚早でしょう。一方の魔物の活性化についてですが、これに関しては少しずつ全体像が明らかになってきています。オッツキイム全土で散見されるこの現象にはいくつかの共通点があります。こちらの地図をご覧になって下さい。よろしいですか? これによって被害を受けたのはマラス、シューエル、バルト、ルクエル、エイバ。どうです、お解りになりますか?」
「……全て古代神殿の近くにある町や村ばかりだ」
「その通りです。そして各地から集められた情報を分析してみると興味深い事実が発覚しました」
「何だ?」
「この現象の発生には3段階のステップがあります。いえ、正確に言えばこの現象自体はその第二段階に位置するわけですが。まずは第一段階。神殿を取り囲むように障気が発生する。そして第二段階。障気の中から魔物が現れる。最後に第三段階。神殿の中心から天に向かって光の塔が現れる」
「光の塔……?」
「それが何かは解りません。しかしオッツキイムで何かが起ころうとしている。それは確かなのです」
「ちょっと待ってくれ。ネツアク、イエソド、イェールス、カレルア、ユリアヌス……最後のレファスタはどうした?」
「手元にある情報ではまだ第一段階にあるようです。しかし今後何日かの所で次の段階へと進むでしょう」
 掌がじっとりと汗ばんでいた。
 オッツ・キイムに点在する古代神殿はアドビスを中心にヘキサグラムを為している。その頂点はネツアク、イエソド、イェールス、カレルア、ユリアヌス、レファスタの六つ。それぞれが強力な魔力を封じた遺構であり、その相互干渉によってオッツ・キイムが成り立っていると言っても良い。言わばそれらはこの大地を支える骨格のようなものなのだ。もしもそれらの封印を解いているのがイールズ・オーヴァであるとしたら、奴は一体何をたくらんでいる? 封印が解除されて全ての力が解き放たれたその後に何が起こる? ヘキサグラムの発動は一体何を意味するというのだ?
 俺を支配していたのは捉えようのない不安だった。それから逃れるように地図に落とした視線をゆっくりと上げた。視界に入ったカイは険しい顔をしながら俺をじっと見つめている。そしてその瞳を見つめた瞬間、彼が何を考えているかすぐに理解できた。
「行きましょう」
 そこにジェンドがいる。少なくとも彼はそう確信しているようだった。アドビスに残るのか、それともレファスタに向かうか。葛藤がなかったと言えば嘘になる。しかし俺の唇はそう応える事に何の戸惑いをも持ってはいなかった。
「ああ」
 そしてゆっくりとイリアの方に視線を向けた。いつも通りの笑みを浮かべながらこくりと頷く彼女。その笑顔ほど頼もしいものは他にはなかったと思う。
「レファスタに行かれるのですか?」
「ああ、そうだ」
「女王からこれを預かっています。どうぞ」
 ヒルダが差し出してきたのは一通の手紙。そしてアドビスの紋章とミトの署名の入った紙と、この国に古くから伝わる神器だった。
『お役にたてますように』
 手紙に書かれていたのはただそれだけだった。しかし彼女の想いを伝えるのにそれ以上相応しい言葉は無かったと思う。
「行こうか」
 二人の顔を交互に見つめてから、もう一度だけ頷きあった。そして俺達は一路レファスタへ。そこで全ての決着をつけようと心に誓いながら。



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